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第二章「上空視点による三人称」 15.森林事務所 prev * index * next 尾瀬の森林事務所は磯倉市の市街地を南に抜けた県道沿いにあった。尾瀬を貫くように伸びている大型林道にも面している。有事に対処するためであり、そのための要員と車両が配備されていた。レンジャーと呼ばれる森林管理員たちは、格闘技の鍛錬を積み、サバイバルの知識を備え、銃器の扱いにも精通する。また、武器の携帯も許可されていた。この時代、自然公園はトラブルの宝庫であった。それを管理する森林事務所はいわば警察と軍隊の両方の役割を持たざるを得なかったのだ。 自然公園には「統制社会」を脅かす数々の要素が溢れている。広大な土地と、肥沃な大地。数少ないながらも生き延びている動物たち。それを狙う密猟者、密農者はあとを立たず、幾人逮捕しても彼らは現われ、いくつ潰しても畑は耕される。しまいには畑の農作物を狙うホームレスたちの温床となり、さながらスラム化している地区もある。 それを監視管理する国家公務員、それが森林管理員――レンジャーだった。 「でも、だから腐敗の温床にもなりうる」 磯倉市を走る市営バスのなかで、七瀬玲人は呟いた。バスは小刻みに揺れ、七瀬の身体をぐらぐらと痛めつける。極力喋らないようにしていたが、ついふっと口に出た。口に出してからしまったと思った。胃の中の空気が喉を通って外に出た。同時に車内の淀んだ空気がどっと吸い込まれる。 「――気分が悪そうだな」 隣に座っている同僚の根木が、読んでいる文庫から目を離して言った。市営バスの車内でどうどうと仏書院を読める男を七瀬は始めて見た。 「乗り物酔いするって噂は本当だったんだな。けけけ。我慢してくれ。もうすぐだ」 同僚といっても七瀬は企画部、根木は営業部だ。社内で森林事務所に面通しできる人間を探したら根木が紹介された。七瀬は一度だけ彼と仕事をしたことがあったが、好きなタイプの人間ではなかった。 「事務所は市街地を出て南と聞いたが」 バスは西に向かって走っている。さっき鉄道の高架を越えた。これでは繁華街のほうに行ってしまう。 「これでいいんだよ。話は聞いてるんだ。一番面倒のないルートを使っている」 七瀬は押し黙った。 営業部の部長には、社長から直に話を通してもらったはずである。そのうえで彼が選出された。信じるしかあるまい。なに、いざとなれば多少荒っぽい手段を使う用意はある。それまでは様子を見てもいい。 鞄のなかには三越からの行動依頼書があった。それには、ＯＮＥ（主要九ヶ国相互監視機構）のエージェントが国内に入っているという情報もある。奴等に先を越されてはならない。だが、急いては全てを無にしてしまう。 「次、降りるぜ」 根木は文庫をポケットに仕舞い、降りる合図のブザーを押した。バスは坂を登りきったところで車体を路肩に寄せた。 がくんとひときわ車体が揺れて停まった。 降りるなり七瀬は、街路樹のわきに吐いた。 そこはレストランだった。 『ルゥサールカ』 ロシアの人魚だか魔女だかの名前だ。扉には人魚のレリーフが飾られている。見かけは派手だ。いかにも地方の成金が好みそうな外観。 「飯を食うには少し早くないか」 日が落ち始めたばかりだ。 「吐いたばかりだしな。けけ。まぁ、つきあえ」 根木は短く刈り上げた髪をがしがしと掻いた。髪を洗うのなど簡単だろうに、何日も洗っていないらしい。頭皮の油が指についててらてらと光っている。七瀬の髪は肩甲骨の下まで伸びている。縛っていても一見女性に見えるくらいだ。シャンプーには軽く１時間は要す。 「ここは地下が遊技場にもなっている。食わせる料理もまあまあだ」 根木は勝手知ったる様子で店内に足を踏み入れた。 歩み寄る給仕とふたことみこと交わす。やがて、二人は地下の個室へと促された。 「……声をあげるなよ」 給仕がドアを開ける前に、根木が囁いた。なんとなく想像は出来た。七瀬はつまらなそうに眼鏡の奥の目を細めた。 部屋のなかは薄暗かった。ゆっくりとしたアラビア系の音楽が流れている。テーブルがふたつに、それを囲むようにソファーが並んでいる。つんと鼻をつく匂いがする。 ソファーには半裸の男がだらしない格好で座っていた。その男の腰にはやはり半裸の女が跨っていて、ゆらゆらと揺れている。下半身は完全に裸だ。接合部はじっとりと濡れて、淡い光に光っている。 女の目は虚空を見つめていた。行為に酔っているふうではない。吐息や涎とともに白い煙が女の口から漏れている。陶酔しているようにも、なにも感じていないようにも見える。見れば、テーブルには葉巻がいくつか並べられていた。そのひとつが女の手にあった。 「……大麻か？」 七瀬は根木に聞いた。 
「いんにゃ、『リーフ』だよ。一度やったら止められねぇ。中毒性は薄いが、刺激は何倍も違う。あんたも今度試してみるといい。俺が安く売ってやる」それで共犯だ、とでも言いたげに根木は笑った。 「『虎穴に入らずんば虎児を得ず』だ。チャンネルを保つためには自ら泥を被る必要がある。幸い、ウチのお偉方はみなそれが判っている。あんたもそうだと信用している」 『信用』という言葉とは最も縁遠い会話だ。七瀬は眼鏡の端をくいと上げた。 「コートをどうぞ」 やたらと胸が強調された衣服に身を包んだ女が近づいて肩に触れた。根木と七瀬は彼女にコートを渡した。 「見たことないな」 根木が言った。 「先週から勤めさせていただいています。アリカです」 ネームプレートにはカタカナで『アリカ』とだけ書かれていた。 「所長に声をかけてくれ、根木だ」 「かしこまりました」 潤んだような瞳の女だ。少女といってもいい歳ではないだろうか。彼女はそそくさとコートを係の者に渡すと、さきほどの半裸男のもとまで小走りで近づいた。そっと耳元に手を沿えて口添えする。男の首がこちらに回された。 「おお、根木くんですか。こちらにどうぞ」 男は腰の女を抜いて、わきにどけた。女はそのまま給仕に抱えられて出て行った。アリカは男の股間をおしぼりで拭い、衣服を上げている。男には恥らう様子も無い。 「あれが磯倉森林事務所の水子沢所長だ」 ようやく根木が七瀬をここにつれてきた理由を言った。七瀬は納得した。 |