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第二章「上空視点による三人称」 13.病室の少女 prev * index * next 三越は慎重にことを進めねばならなかった。彼は５年前から、自分が関わってきた事態がこの数日で大きく変化したのを自覚していた。だが、だからといって自分の仕事の内容が変るわけでもなかった。もともと三越の仕事は変化を感じ取り、それを的確に判断することだった。感情を越えた判断力、それが彼に求められたものだった。 今、ある場所で『戦争』が始まろうとしている。 三越はコードネーム『００３』と呼ばれているが、別名『耳』という名前も持っていた。彼の『耳』には世界中のあらゆる情報が入ってきた。とりわけ重要視したのが、ＯＮＥ（Ｏrganization of Ｎine Ｅyes：主要九ヶ国相互監視機構）の動向だった。国際的な諜報組織であるＯＮＥが最近ある動きを見せている。イリーガル（非合法員）が数名、日本に入ったという情報もあった。三越の情報に組織の上層部は緊張していた。今回、保安部が作戦行動を急がせたのは、何も開発部からのプッシュだけが原因ではないような気がしていた。 午後には部長に報告をしなければならない。 三越はその前に会っておきたい人物がいた。００８からの報告では川田姉妹はうまくターゲットに近づけたようだが、油断は出来なかった。数十冊のファイルから炙り出された『三津木弥生』という人物がそれを物語っている。駒を失う危険をこれ以上増やすわけにはいかないが、保身ばかり考えていては全てを失ってしまう。『カノン』の状態は常に把握しておく必要があった。 圭洋大学付属病院は地下鉄の駅を降りて、ＪＲの駅のある方角へ向かう途中にあった。普段なら川べりで写生をしている者達の姿が見られるが、今日は風が強いためか誰もいなかった。 ふと『風の辿り付く場所』という曲を思い出した。１９９０年代の終わりに流行ったゲーム曲だ。歌詞は忘れてしまったが曲は耳が覚えていた。この曲は２０００年代にはゲームを離れ、あらゆる場所で聴くことが出来た。オーケストラにもなった。そして２０１０年代、人々がこの曲を忘れ始めた頃、全く別の、誰も想像すらしなかった場所で流れることになる。 三越は受付を無視して病棟の奥へ向かった。院内は白く清潔で、独特の匂いが漂っている。 「あら？ 三越さん、今日は検査の日だった？」 
顔見知りの看護婦が声をかけた。関谷菜奈美だ。「いや、様子を見に来ただけだよ。どうだい、彼女は」 「元気よ。退屈でしょうがないみたい。中学生だもの、仕方ないわ」 「発作は」 「まだ時々。落ち着きもしないし、酷くなることもない。例の二人のような兆候はまだ。あ、そういえば」 「なんだい？」 「昨日、『バニラアイス』をほしがったわ」 「……詳しく聞きたい。婦長を通したほうがいいだろうね。後で婦長室へ寄るから、そう伝えといてくれないか」 「わかったわ、病室へ行くのね？ くれぐれも気をつけて」 彼女は看護婦として優秀なだけではなく、三越らが必要とする資質の一部を持っているようだった。もともとここの職員は半数以上が正規のルートで雇われた者ではない。彼女は三越にとって、同種の仲間だった。 病室は二階の階段から一番遠いところにあった。『２１７「住吉梨花」』と手書きの文字がドア脇にかけられている。 三越は小さくノックした。 「どうぞ」 部屋は共同部屋だったが、他に患者はいなかった。ベッドの手前にはカーテンが引かれており、三越が入ると同時に水色の布が静かに引かれた。白い肌の少女が顔をだす。「ああ、三越さん」 あいかわらず、消え入りそうな声だが、不思議と明るい雰囲気を出しているのは天性のものだろうか。 「やあ、元気そうだね」 「元気なら、こんなとこにいませんよ」 少女は、ふふふ、と笑った。 彼女が住吉梨花、『カノン』候補者として登録されている数十人のうち、確実度判定が５を越えた３人のうちのひとりだった。 「このあいだ頼まれた本を持ってきたよ」 三越はカバンの中から一冊の本を取り出すと、ベッドから起き上がりショールを羽織っている少女に手渡した。『エンヂュアランス号漂流』。南極大陸横断を目指した船の顛末記だ。 「ありがとう。ずっと読みたかったんです」 彼女は読書家だ。病気がちで入退院を繰り返しているので学校もまんぞくに行っていないが、知識はそこらの大人を凌ぐものがあった。放流のような好奇心と学習欲が彼女のなかで渦巻いているのだ。それは、三越がはるか昔に忘れ去ったものだった。 『カノン』の候補者がすべて、病院に入っているわけではない。梨花の病気はカノンの能力とは関係の無いところにある。三越は、それが失われないよう気を配る必要があった。医者の話では現在のところ命に別状はないそうだが、完治するにはどうしても手術が必要だと言う。そして、手術には危険が伴うという。 「これ、ずうっと前に一度映画化もされてるんですよね」 梨花はぱらぱらとページを捲った。 三越は命が秤に掛けられている少女を想った。彼女がもし『カノン』であるなら、能力の保護のため手術は絶対に許されないだろう。上層部も無用な危険は避けるはずだ。そして『カノン』はベッドのうえに縛られて安全に保護される。 少女はいまだ事情をなにひとつ知らない。明日には表を歩けるようになると、それだけを夢見ている。 窓の外で、枝にとまってこちらを眺めていた雀が飛び立った。 ちらちらと雪が舞って来ていた。 |