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第一章「通り過ぎる天使」 1.事件 index * next その女は帽子を目深に被りサングラスまでしていた。なるべく裏通りを歩き、日の当たらない道を選んでいる。明らかに人目を避けているのだ。だがその必要はなかった。このくそ暑いのにロングコートを着ている怪しげな女に声をかける者などいなかった。 だが、衛宮士郎は声を掛けない訳にいかなかった。彼女が屋敷の敷地内に無断で入ってきたからだ。 「あの、君……何か用かな」 女はくるりとこちらを向いた。サングラスを外してポケットに入れる。上目遣いの瞳が露になった。 可愛らしい顔だ。好き好んで怪しい格好などしなくてもいいのに、と士郎は思った。 「ここの人？」 「ああ。君は？ 穂群原学園の生徒かな」 年齢的にはそんなとこだと踏んだ。 「遠坂凛……」 「遠坂の友達？」 「……は、どこ？」 瞳がきらりと光った。尋常ならぬ気配が感じられる。 「――まず、君の名前を聞かなくちゃ教えられないな。だいたい、何故ここに遠坂がいることを知っているんだ」 言ってから、しまったと思った。自分でここに遠坂がいることをばらしてしまった。遠坂が聞いたら、また自分の間抜け振りをなじるだろう。 聖杯戦争は終結したが、遠坂凛はあいかわらず士郎の屋敷に出入りしていた。本格的に魔術の基礎を教えるつもりらしい。師としての遠坂は確かに優秀だが、士郎は、彼女は自分をいじめるのが楽しくて教師役を引き受けているのではないか、と邪推している。 目の前の少女は質問に答えない。 目を右へ左へ動かしてあちこちを見ている。 士郎はその目に不穏な空気を感じ取った。面倒なことになるのかもしれない。 「――ん？！」 首筋がちくりと痛んだ。 「悠長に話している暇はないの」 コートの襟元から、小さなステッキがこちらを向いている。そのステッキから小さな光が漏れている。電磁波のようなものか？ ステッキから何がしかのものが放射されて、士郎を攻撃しているのだ。ステッキがちらちらと動く。それを握っているのはこれまた小さな人形だった。 「１回目は威嚇です、ちょっと痛みがあるだけ……２回目は身体の自由が利かなくなります。３本目で貴方は活動を停止します」 人形が小さな声でとくとくと喋った。生きているのか？ 最近、士郎の身に起こったことを考えれば人形が喋るくらいどうということはない。なにより遠坂凛を訪ねる者ならば、その方面の人間であることに違和感はない。 「教えられない。たとえ３回目を受けようともだ」 士郎は応えた。二人はしばし睨み合った。 緊張を解いたのは人形だった。ステッキを降ろしてピンク色の髪をふわりと揺する。 「ますたぁ、この人、いい人」 少女は人形の言葉に我に返った。帽子に手を掛ける。 「そうだね、しおん……」 士郎のほうに向き直り、深々と頭を下げた。 「……ごめんなさい、余裕がなかったの。あやまります」 少女は帽子を取った。茶色い艶やかな髪がふわりと踊り出た。赤い珠の髪留めでツインテールに結わってある。長い髪は風に揺れてきらきらと陽光に映えた。 「わたしの名はチャコ。訳あって素性はあかせません。でも信じて！ 凛さんに危機が迫ってるんです！」 ＊ ＊ ＊ 「な、なに？ あなたは？！」 屋敷の別棟からただならぬ声が聞こえたのは、ちょうどその時だった。遠坂の声だ。士郎は急いで屋敷内に駆け込んだがチャコの方が早かった。彼女はとんっと跳躍すると軽々と士郎を追い越して、風のように走っていく。 「灰は灰に、塵は塵に――！！」 
遠坂が魔術を発動させている。躊躇いがない。遠坂は相手の魔術師を感じ取ることが出来る。ひと目で敵と判断したのだろう。こんなことは聖杯戦争が終ってから初めてだった。少し遅れて別棟に飛び込んだ士郎は、そこに信じられないものを見た。 敵……なのだろうか？ 白いセーラー系の服を着た小柄な女の子がにこにこしながら窓枠に座っている。大きな瞳がくるくると動く。小学生くらいだろうか。膝には茶色いむくむくとした小動物が円らな瞳でこちらを伺っている。狐のようだ。 とても遠坂が敵視するような存在には見えない。 だが、それに対峙する遠坂は明らかに冷静さを失い、米神から流れ出る汗をとめようもなく焦燥していた。手に握る魔術をこめた宝石が、手汗で滑っている。 なんだ、いったい？ 士郎は狼狽した。 窓枠が粉々に砕けている。左右の壁には爆風の穴がある。遠坂の攻撃が穿ったものだ。その惨状のなかで、女の子は平然とし、邪気のない天使の笑みを浮かべている。 この笑顔はまるで――そう、イリヤの笑顔に似ていた。 「ええと」 女の子は友達とお喋りしているような気軽さで、話し出した。 「おねーちゃんが遠坂凛さんだよね。わたしは高町なのはです。ええっと、ごどーこー願います」 ぺこりと頭を下げる。その仕草が実に可愛らしい。 （外見に騙されちゃ駄目！ こいつは明らかに高位の魔術師。しかもわたしを……） 凛はこの少女の最初の不可思議な攻撃を思い出した。現れたとたんに呪文を詠唱するわけでもなく高密度に圧縮された魔術の塊を投げつけた。咄嗟のことで避けようもなかった。それで、自分は下半身の自由を失ったのだ。かろうじて動く両腕で応戦したが、少女はそのことごとくを虫でも振り払うように軽々と避けた。キャスターとも違う。彼女は魔術師としての格が段違いであり、魔法使いとでも呼ぶべき存在だったが、まだ凛の理解の範疇にあった。この少女は異質だ。少なくとも凛の知る魔術体系には当てはまらない。 「伏せて！」 後ろから声がした。凛は振り向いた。 黒いコートの少女が廊下から叫んでいた。その後ろには士郎が硬直しながらこちらを伺っている。 「伏せて！ 早く！！」 少女が叫んだ。凛はとっさに従った。 コートの中から伸びた手に銃が握られていた。華奢な身体に不似合いな銃だ。 凛はぎょっとした。魔術戦争には耐性があったが、本物の銃を見るのは初めてだ。 黒コートは立て続けに２発放った。鈍い銃声が室内に響き渡る。 凛も、士郎も、動けなかった。 コートの少女の放った弾丸は確かに小柄な少女の胸に命中した。だが、彼女は涼しい顔で胸を一瞥しただけだ。目を細めて自分を撃った相手を見据えている。 （敵同士……なの？） 不穏な空気が室内を満たす。 「レイジング・ハート！！」 少女が窓枠から飛び降り、大きな声で叫んだ。 空中から、ハート型に天使の羽をあしらったステッキが現れた。 投影魔術？――凛は発しかけた声をしかし飲み込んだ。少女はそれを手にしたことで完成したのだ。周囲の空気が陽炎のように揺れている。壁が、天井がびしびしと不気味な軋みを発している。さきほどまでの可愛らしい外見から窺い知れる印象は瓦解した。悪意と、殺意と、敵意の塊がそこにいた。 「あなたたちは逃げて！」 チャコが叫んだ。 頭の大きな赤い珠を外すと、それを少女に投げつける。 「――！？」 少女はステッキを振って、珠を払おうとした。だが、珠はステッキに触れたとたんに、ぱちんと割れた。中から少量の水がはじけ出る。水は少女の額から胸元までを濡らした。 「え、あ、あああ……！！！」 水は粘着性のスライムのようなものだった。それが即座に乾いていき、少女を拘束し始める。 左半身が硬化した。さらにそれは侵食するように全身に広がっていく。びきびきと気味の悪い音が響き渡る。 「うう……」 なのは、と名乗った少女は、くるりと踵を返した。形勢不利と悟ったのか。窓枠からひらりと飛び降りる。 「ま、待て！」 士郎は窓に駆け寄った。 すでに、少女の姿は見えなくなっていた。 「追わなくていいです。凛さんが無事だっただけでも……」 チャコが言った。だが、士郎には聞こえなかった。 追わなくては。 頭に血が上っていた。人を傷つけるもの。圧倒的な魔術で、平凡な日常を壊すもの。 「あいつは……」 窓枠から身を乗り出した。 「……！ いけない、離れて！！」 「え！？」 油断だったのか。 聖杯戦争のときに培われた緊張感は、今は失われていた。咄嗟に士郎は横に飛んだが、間に合わなかった。 「士郎！」 遠坂が叫んだのが聞こえた。 窓枠の上から、茶色い布切れのようなものが士郎の首に巻きつく。 あの狐だ。 狐のしっぽが長く伸びて自分の首に巻きついている。少女の膝に座り込んでいた狐。いつのまにか姿を消していたと思ったら、屋根に潜んでいたらしい。 「士郎！！！」 遠坂がよろける足で近づこうとする。いけない。これが罠であることは火を見るより明らかだ。士郎は近づくな、と声を発しようとするが喉を絞られていてはそれも敵わない。額から汗が流れ落ちる。首の締め上げは次第にきつくなり、すでに足は爪先立ちになっていた。 「く、る、な……とおさ……」 口から泡を吹きながら、声を発した。 遠坂は一瞬、びくりと身体を硬直させた。しかし、遅かった。 「――！」 天井が吹き飛んだ。 文字通り吹き飛んだのだ。 内部から弾ける様に、部屋は外へ割れた。天井が、屋根瓦が音もなく吹き飛んだ。一瞬のちに爆音が響きわたる。風、熱、圧力――部屋の片隅がおおきく開かれ、外の青空が広がった。爆発の中心にはステッキを握った先ほどの少女がいた。ステッキのハートがくるくると回っている。 少女はにっこりと微笑んで両腕を広げた。遠坂凛の身体がふわりと宙に浮いた。チャコが何か叫んで腕を伸ばしたが、指先がかすかに触れただけだった。 時間が静止したようだった。 無声映画のように事は静かに進行していた。 少女は、またステッキを振るうと、今度は回転するハートから小さな気泡が現れた。気泡はぶくぶくと泡だって、少女と狐、そして遠坂凛を包み込んだ。おおきなシャボン玉はふたりと一匹を完全に飲み込んだ。 巨大なシャボン玉が人間を閉じ込めている。信じられない光景だった。遠坂が内側から叩いているが、シャボン玉は割れはしなかった。表面が弾力をもって力を吸収している。魔術がコーティングされているのだ。 シャボン玉が地を離れた。 瓦礫の山から次第に空へと上っていく。 遠坂凛と誘拐犯を乗せて、高く、高く…… 士郎は、すでに解放されているが、身動きするほどの力も残っていなかった。 「と、お、さか……」 見れば、チャコが銃を構えてシャボン玉を狙っていた。だが、撃たなかった。彼女はシャボン玉の姿をずっと銃で追い続けた。視認できる範囲からその姿が完全に消えうせるまで彼女は銃を降ろさなかった。 「チャコ……」 肩の人形が、寂しげな声を落とした。チャコは銃を下げた。 「しおん、失敗した。また先を越されちゃった」 がっくりと肩を落とす。しおんがずり落ちそうになって、襟にしがみ付く。 「いったい、あれは……」 士郎は満足に言葉を発することが出来ないでいた。喉が回復していないのもあるが、あまりの出来事に身体が反応しなかったのだ。だが、遠坂が攫われたという事実は理解できた。そして自責の念が士郎を苛んだ。 何故俺は動けなかった？ 長い影が和室を抜け、開け放たれたドアから廊下にまで伸びる。 ほんの数分前まで保たれていた世界が崩れ落ちた。衛宮邸の時間は完全に静止した。 ＊ ＊ ＊ 「しおん、次行くね」 チャコは足早に廊下を抜けると、さっさと衛宮邸を出て行こうとした。 「ちょ、ちょっと待て！」 屋敷の主が、去り行くチャコを止める。 「ごめんなさい、時間がないの。見たでしょ、私たちに関わらないほうが身のためです」 「そんなわけに行くか！ 遠坂が攫われたんだ。教えてくれ、あれはなんなのか。そしてあんた等はなんなのか」 「聞いてどうするの」 「当然だ。助けに行く」 彼は即答した。 「素人が手を出せるものじゃないことは判るはず。貴方も魔術師のようだけど、生半可な手品では、聞いたところで何も出来ない。ただ悪戯に焦燥感が増すだけです」 奥歯を噛み締める音がした。理不尽に思うのだろう。無理もない。 今までも多くの人に事情を話した。だが誰もこの異常な事態を受け入れられなかった。警察に突き出されたこともあった。ある時など誘拐犯扱いされたものだ。煩わしいことは出来るだけ避けたかった。 「……なら、一つだけ教えてくれ」 士郎は意を決したかのように、険しい目付きをしていた。 「あんたがこれから行くところには、遠坂を助けられる鍵があるのか？」 「……そうとも言えます」 「あんたは、あの魔術師の『敵』なんだな？」 「それは間違いなく」 士郎は大きく息を吐いた。一拍後の顔からは迷いが消えていた。 「同行させてもらう」 「は？」 「まるっきりの素人じゃない。足手まといにはならないつもりだ」 チャコは呆れた。 「事情をまるで知らないのに？ これからどこに行くのかもわからないのに？」 「あんたが教えてくれないんだろうが」 明らかに不意を付かれた。このような反応は予想していなかった。この男は自分を信じているのだ。なんという御めでたさだろう。だが、チャコは気に入った。 「分かりました、同行を許可します。ただし、出発はすぐです」 「分かってる、待ってくれ、４０秒で支度する」 本当に４０秒で戻ってきた。手には小さなリュックひとつと、木刀を二本持っているだけだった。 「さあ、行こう。で、目的地は？」 チャコは頭の中で、次のターゲットのいる場所を捜した。 「オオサカ市」 「オ…オオサカ？」 「オオサカ市ミドリガオカ奉仕青年団本部、そこに奴らの次のターゲット『岳画殺』がいる」 |