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第一章「三津木弥生による一人称」 1.発端 index * next 「追われているんだよ！」 俺は反射的にその少女を匿った。 ゴミを出すために店の裏口から路地に出たところだった。狭い路地を駆けてくるものがいるなどと思わず、扉を足で抑えたままゴミの入ったポリ袋を蹴りだした。眠気のせいで注意力が散漫になっていたせいもある。少女は真っ直ぐポリ袋に突っ込み、ゴミを抱え込むように前に突っ伏した。 派手に転がった少女は、しかしそのまま起きられなくなるということはなく、すぐにすっくと立ち上がって、真っ直ぐに俺を見た。 ――追われているんだよ！―― 
少女の口から咄嗟に出た台詞は、俺の中のある傷痕を疼かせた。かつて、助けられなかった少女、守れなかった少女の苦い想い出が蘇る。 少女は、幼い顔立ちで弱弱しかった。息を切らせて今にも倒れそうだった。 狭い雑居ビルの隙間、いわゆる路地裏で、壁に背を預けて膝をがくがくと震わせている。おそらく大通りを逃げてきて、とっさに入り込んだのだろう。 これは実はずいぶん危険な賭けだ。 狭い通路は追っ手を撒くのには適していない。道を熟知しているのなら話は別だが、そうでない場合は逆に致命傷になりかねない。路地の反対側に来られる可能性もあるし、狭い路地には逃げ場がない。なにより、行き止まりだった場合には対処のしようがない。『隠れる』という思い込みが、人を狭い場所に誘うだけであって、必ずしも良い選択ではない。 追われることに慣れている人間は、逆に人込みに出るものだ。 俺は少女を、店の裏口から中に入れた。 「あれ、どしたの？」 真臣が怪訝な顔をして振り返る。 「ワケアリらしい。ちょっと奥へ隠してくれ」 理由も言わずに少女を押し付ける。 「ちょ、ちょ……」 慌てる声を無視し、俺はゴミ袋を手にして再び路地裏へ出た。 あたりに人の気配はない。 空気が冷たい。昨夜、雨が降ったせいだろう。どこか焦げ臭いような、毛羽立ったアスファルトの匂いが漂っている。まだ夜が明けて間もない。耳の奥にキーンとした音が聞こえる。始発電車が動き出し、再び街が活動を始めている。 俺の働いているバー『エラトステネス』は明け方まで営業している。会員制クラブのような赴きもあり、クラブのホステスなどの同業者や業界関係者が主な客層だからである。だいたい最後の客が引ける頃にはこのくらいの時間になるのだ。 店内に戻ると、真臣がじろりとこちらを睨んだ。顎をくいと動かして、「こっちに来い」と言っている。 カウンターの前には痩せた貧相な男がいた。 俺が裏に出ている間に来たらしい。客でないことは一目瞭然である。男は「失礼」と頭を下げると、背広の内ポケットからハンカチを取り出してしきりに汗を拭いていた。 「ここに、誰かこなかったかって」 真臣は眼鏡の端をくいと上げた。鼻が低いのですぐずり落ちるのだ。 「失礼」 また男は繰り返した。「この辺りで見失ったのです。女の子です。背は低め、１４０くらい。肩までの栗色の髪。歳は１８ですが、見た目は中学生くらいです」 家出少女を探している――といった印象をもった。 貧相な男は、そのまま娘を心配する父親の像と重なった。だが、そんな印象を与えようとしているような節が見られた。同情を誘って情報を得ようとする手段は常套だ。だが、うまくはない。探している娘の特徴を、こうまで事務的に描写できる父親はいない。 「いや、気付きませんでしたが……」 努めて平静に言った。 「失礼、失礼」 男は繰り返す。 背広の内ポケットをごそごそと掻き回す。右へ左へ手が滑り込む。やがて目的の物を見つけたらしく、男はほっと息を吐いた。手帳だ。その最初のページを開いて、前に突き出した。 「私は、農水省の食品衛生管理官です」 手帳のライセンス証には『一級食品衛生管理官：日吉日向』の記載があった。初めて見た。この男が『鯛焼き捜査官』？ 「私の探している娘は、『鯛焼き法』に関わる重要参考人です。写真があれば良かったのですが……」 時は未来――遥かなる味覚を夢見る人々がいる。統制以前の食べ物はもう手に入らなくなっていた。かつて「鯛焼き」という食べ物があった。それは伝説だ。 「鯛焼き法……」 「飲食業をされているんでしたらご存知でしょう。最近、違法な手段で統制以前の食物を手に入れる輩がいます。特に『鯛焼き』『たこ焼』といった嗜好品目に多い。２０世紀後半から２１世紀の始め頃までに作られて、冷凍状態で保存されていたものが裏で出回っているのです」 「それで、その娘はなにを？」 真臣が聞いた。 「それは申し上げられませんが、彼女は非常に危険な立場にいます。我々、衛生管理管は彼女を保護しなければならない。是非にご協力願います」 『保護』という言葉に眉がぴくりと反応した。 なにか言いそうになる。しかし、それを制するように真臣が言った。 「わかりました。見かけたらきっと連絡します」 営業用の笑顔を向けている。 「お願いします。連絡先はここです」 男は名刺をカウンターに置いた。 俺は合点がいっていた。最初のこの男の印象が妙だったのだ。貧相な容貌、いかにも頼りなげな口調。それでいて、どこか油断できない雰囲気が漂っていた。 「通称『鯛焼き捜査官』か……」 男が去った後、真臣は目を細めて呟いた。店内には重苦しい沈黙が満たされている。 「やっかいごと背負っちゃったみたいだね」 そのとおりだ。 平穏でいられた時間が過ぎ去るのを感じた。物語はいつも唐突に始まるのだ。 |