『情景　～夜話～』

『情景　～夜話～』　（作：タケ）

　――はじめに――

　この物語は、「とらいあんぐるハート２　さざなみ女子寮」のヒロイン、仁村真雪のシナリオを基に書かれております。
　従って、真雪さんシナリオをクリアしてからお読み頂けると幸いです。
　では、つたない物語にしばし、お付き合い下さいませ。

　情景　～夜話～

　一心不乱に、筆が、と言うよりは、鉛筆を握る手が動いていた。
　キャラクターの表情が、白紙だった紙面を次第に埋めていく。
　笑った顔、困った顔、怒った顔、ふとした時に見せる表情――同じキャラクターのいくつもの顔が、気付けば真ん中を除いた一面に描かれていた。
「あ……」
　ようやく、手の動きが止まる。
　空いた左手で、こめかみの上をがしがしと掻き回すと、仁村真雪はわずかに苦笑を漏らす。
　大学生にして、人気漫画家としての顔も併せ持つ真雪は、目下人気を得ている連載長編の、とある一話を描いている最中である。さざなみ寮の、無造作に散らかった自室の中で。
「はぁ、まだまだ、だな～」
　椅子の背にもたれて、軽く伸びをする。ひと呼吸すると、身体のあちこちが悲鳴を上げた。
「あ～だだだ……っと。う～ん、少し休むかぁ」
　漫画家、という仕事は作家同様、決して楽な仕事ではない。作家が、文章と言う〔媒体〕を以って世界を創り上げる、そんな作業と同様に、漫画家は自らの描く絵と、それに付随する台詞という〔媒体〕で、その世界を創り上げねばならない。
　そして、それが受け容れられるかどうかが、ダイレクトに反映されてくる。自らの描き出す世界で食べていけるかどうかが、そこにはかかってくるから、自分の好きな事を出来る楽しさの中にも、厳しい現実が大口を開けているわけだ。
　その〔厳しい現実〕がふたつ、真雪を大いに悩ませていた。
　ひとつは、進行にいささか詰まってしまった事。もうひとつ、原稿執筆の〆切が間近に迫っている事。
　もちろん、今までにいくらもあった事だ。その度に、時には妹の知佳の助けも借りたり、あるいは編集さんをなだめすかしたり――と言うのは真雪の方から見た話であって、実際は、編集さんが脅されて、ほんの僅かながらも〆切りを伸ばされたり、あるいは臨時アシスタントを、強制的にやらされたりするそうな――しながら、何とか乗り切ってきた。
　それは、今も変わっていない。
　ただ、ここ最近こうした事になってしまうと、真雪はよく、同じキャラクターの表情をいくつも書くようになった。
　それが、真雪としても無意識の内に、そうしているのだ。
　疲れた目をいささかしょぼつかせ、視線を何の気なしにうろうろとさまよわせる。
　誰かが、確か小説作家であったろうか。過ごしやすい部屋というのは、実は適度に散らかっているものなんですよ、などと言っていたのを、ふと思い出した。
　ところが、今の真雪の部屋たるや。
　適度、にしてはちょっと過ぎていると、一目で分かるくらいに散らかっている。
　はぁ、と、ひとつため息を吐くと、
「耕介、まだ起きてるかな？」
　真雪は、自室から出て階下に降りていった。
　外はもう夜も更けて、窓の外には黒々とした帳が降りている。

　その頃、耕介はキッチンで、翌日の朝食の為の下ごしらえをしていた。
　何しろ、さざなみ寮の住人は、結構舌が肥えている。中には、
「ご飯はやっぱり、ボリューム勝負！」
　と言う住人もいるのだが、それはそれとして、やはり味であろうがボリュームであろうが、耕介にとって見れば、いい加減な仕事など出来るわけがない。
　その下ごしらえもあらかた終わったところに、真雪が姿を現した。
「よ～、耕介。紅茶でいいから、淹れてくれる？」
「いいですよ。それにしても、いつも大変ですね」
「ま～ね～、毎度の事だけどさぁ」
「あ、座ってて下さい。すぐに淹れますよ」
「さ～んきゅ、美味いのを頼むよ～」
「はいな」
　食卓の、いつもの席に真雪が陣取ってしばし。
　耕介が紅茶の準備をする。何か夜食を作ってくれる時もそうだし、普段家事をしている時もそうだが、相も変わらず見事な手際である。
「どうしたんです？　もしかして、詰まったとか？」
「あ～、そんなとこ。今回は、結構調子いいと思ってたんだけどさ～」
「あらら……で、〆切りは？」
「それが、明後日なんだよねぇ。一応、明日仕上げって事にして、そん時は知佳に手伝ってもらう事にしてんだけど」
「た、大変じゃないですか」
　会話しながら、耕介の手は止まる事が無い。その内、茶葉の芳しい香りが真雪に届いてくる。
　本職でないと言いながら、耕介は紅茶を淹れるのも上手い。
（本当に、美味いものを作るのが、天職なんだろうな……）
　内心で、真雪は感心している。
　あたしは、さて、どうなんだろうか。
　描くのに詰まったりすると、ふと考える事がある。
　これが、あたしの天職なんだろうか。これが、あたしの本当に進みたかった道だろうか。
　描くのは楽しい。でも、もしかして何か、別の道があったんじゃないだろうか？
　何か――
「真雪さん、お待たせ」
　すっと、さっきよりも甘い香りと共に、一杯の紅茶が真雪の目の前に置かれた。
「さんきゅ……あっ」
　ひと口啜って、気付いた。
「どうかしました？」
「ああ、何でも」
　ふわりと微笑みを返し、耕介は再びキッチンに戻る。
　真雪はただ、
「紅茶でいいから、淹れてくれる？」
「美味いのを頼むよ～」
　それだけしか言ってない。それに対して、耕介はと言うと、
（ブランデーを、ちょっとだけ垂らしてある……）
　まるで、ちょっと疲れているのを見通したかのように、
（自分が今飲みたい）
　そう思っていた紅茶を、それが当たり前であるかのように淹れてくれたのだ。

　香りを含んだ湯気を、そっと吸い込む。
　それだけでも、何かが違った。
　ゆっくりと、口に運ぶ。
　温かい。温かく、美味しい。
「…………」
　カップを持つ手をふと止めて、耕介の動きを目で追いかける。
　座っている真雪の視点からでは、耕介が今、具体的にどんな事をしているのか、そこまではよく分からない。
　分からないが、その動きを見るのがやけに楽しい。
「好きでなければ、やれませんよ」
　耕介の言葉を、思い出す。
　一旦、紅茶を飲みかけて、真雪は手を止めた。
（ふふ……そう、だよな……好きでなきゃ、楽しくなきゃ、やってないよな……）
　あたしだって、同じなのだ。
　何が、どんな事があっても、それが好きだから。そうする事が楽しいから。
　だから、それこそが本当の、
「天職なんだ……」
　つまりは、そういう事なのである。
　半分ほど残っている紅茶は、まだ温かさを残していた。
　それを、ゆっくりと咽喉に落としながら、真雪は自分が妙に幸せ者に思えてくるのを、にんまりしながら感じている。
　そうしている内に、幾ばくか時間が過ぎていった。
「さて、おしまいっと」
　仕事を終えた耕介が、エプロンを外しながら、真雪の方を振り返る。
「って、真雪さん。何をにやにやしてるんです？」
「ん～？　ふふ、教えな～い」
「ええ？　何か楽しい事でもあったんですか？」
「教えて欲しいかい？　そりゃあ、大事な妹が側にいて、好きな漫画描けて、心置きなくみんなと楽しくやれて、ついでにメシやら洗濯やら、何でもやってくれるヤツがいるから、何の心配もしないでいい、これほどの幸せって、そうはないだろうってね。けけ」
「ま、真雪さぁ～ん」
　耕介の表情が、いささか情けないものになったのは、きっと後半の言葉に反応したのだろう。
「ふふっ。なぁ、耕介……あんたはいつも、見ててくれる、気にかけてくれる……多分、あたしは、相当に果報者なんだろうね」
「…………」
　それまでの軽さから一転して、真剣な表情で語を紡ぐ。真雪なりの、本音。
「真雪さん……」
　耕介は真雪の隣に座り、柔らかく目を細め、優しい微笑を向けて、言った。
「俺は、真雪さんが好きですよ。好きな人の事を気にかけるのは、当たり前ですから」
「耕介……」
　あたしの顔、真っ赤っ赤になってるな、そう思いながらも、ひどく胸を高鳴らせている自分自身がそこにいる。誰が言っても、くさくてあざとい台詞を耕介の口から聞くと、言葉の上では、
「何くさい事言ってんだよ」
　などと言いつつも、実は恥ずかしくて、でも嬉しくて、たまらなくなる。
　真雪が、耕介の顔に見入っていたのは、ほんのわずかの内の事だった。
　恥ずかしさが、かえって自分のするべき仕事に戻る事を促す。
「あ、と……そろそろ戻るわ。紅茶、あんがとな、耕介」
「いえいえ」
「耕介」
「はい？」
「……あんがと……好き、って言ってくれて……」
　また、耕介が優しく微笑んだ。

　散らかった自室に戻り、机の上の一枚の紙を取る。
　同じキャラクターの、いくつもの表情。
　それは、耕介の表情でもあった。
　真ん中には余白がぽっかりと空いている。
　椅子に座り机に向かうと、真雪はその余白を、あっという間に埋めてしまった。
　そこに描かれていたのは、耕介の優しい微笑み。
　真ん中を占めるべき、真雪が最も大好きな耕介の表情。
「描き終わったら……耕介……」
　瞳をうるませて、しばらく見詰めてから、
「さて、もう一息。頑張るとするかね」
　微笑みに接吻（くちづけ）ると、それを傍らに寄せる。
　もう一度、耕介の微笑みをにんまりと見てから大きく息を吐き、表情を引き締めて、再び仕事に取り掛かった。

　――それは、夜のさざなみ寮の“情景”である――

　情景　～夜話～　了

　後記

　いかがでしたでしょうか？
　この作品は、美緒を扱った「情景　～突発～」同様に、同人誌「天使のささやき」に掲載されたものです。
　ちょうどこの頃は、「さざなみ女子寮」のヒロインをメインとした構想がいくつか浮かんでいた時期という事もあり、比較的早期に書けると判断出来たのが、美緒の「突発」であり、また真雪さんを扱ったこの「夜話」でした。
　さて、真雪さんのイメージと言うと、漫画家、元不良、不摂生、セクハラ魔王（笑）、なんてところがすぐに出てきそうなものですが、その一方で妹である知佳、そしてさざなみ寮全ての住人とのつながりを大事にしています。
　そして、普段表面に出しているものの奥に、実は不器用で純真な本心を隠している、そんな人となりではないか、そう自分は思います。
　今回、自分が書いてみたものはいわば、
「真雪さんの人となりの一部分は、こういうものなのではないだろうか」
　という推測と言ってもいいでしょう。この作品がそれを正確に当てているかどうか、それを判断するのは、書いた自分ではなく、この作品を読んだ皆さんです。
　我々はとかく、ひとつの角度からだけで物事を見がちであり、自分もまた、その例外ではありません。そんな中で、この作品から真雪さんの人となりについて、ちょっとでも考える事が出来たとすれば、幸いに思います。

　それでは、この辺りで筆を擱きたいと思います。
　ではでは。

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